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Home 御書研鑚 御書と師弟 第19回 立正安国論の太陽 (上)
第19回 立正安国論の太陽 (上) PDF 印刷 Eメール
作者: The Lion King   
2009年 7月 17日(金曜日) 13:21

「立正安国論」提出750年

世界に対話の大道は燦然

御聖訓

汝須く一身の安堵を思わば

先ず四表の静謐を祷らん者か

(立正安国論、31ページ)

戸田先生は言われました。
「『立正安国論』は日蓮大聖人の御書中の巨星であり、末法の一切衆生に対する強烈な指南書である。実に立派な金剛不壊の明鏡と称すべきである」
日蓮大聖人が、国主諌暁の書である「立正安国論」を、時の最高権力者・北条時頼に提出なされたのは、文応元年(1260年)の七月十六日です。その歴史的な諌暁から、今年は七百五十年目に当たります。
大聖人の御化導は「立正安国論に始まり、立正安国論に終わる」と言われます。万年のための御闘争は、まさに「立正安国」の大理想に捧げられたのです。
今回は、御本仏の忍難弘通を偲びつつ、安国論の重要な御聖訓を拝してまいりたい。
「汝須(なんじすべから)く一身の安堵(あんど)を思わば先ず四表(しひょう)の静謐(せいひつ)を祷(いの)らん者か」(御書31ページ)
──あなたは、自分自身の安穏を願うならば、まず四方の平和を祈るべきである──。
「人間の幸福」と「世界の平和」を祈り、行動する仏法者の大精神を、為政者に対して厳然と示された御金言であります。

 

未来に贈る『警世の大提言』

 

民衆の幸福を願い

大聖人が、このように仰せになった鎌倉時代の様相はどうであったのでしょうか。
「立正安国論」の冒頭には、こう記されております。
「近年より近日に至るまで天変地夭(てんぺんちよう)・飢饉疫癘(ききんえきれい)・遍(あまね)く天下に満ち広く地上に迸(はびこ)る牛馬巷(ちまた)に斃(たお)れ骸骨路に充てり死を招くの輩(ともがら)既に大半に超え悲まざるの族(やから)敢(あえ)て一人も無し」(御書17ページ)
それは、自然災害・飢饉(ききん)・疫病(えきびょう)が打ち続き、大勢の民衆が命を落とした悲惨な時代だったのです。
「安国論」提出の三年前、正嘉(しょうか)元年(1257年)には、鎌倉一帯を大規模な震災が襲いました。この「正嘉の大地震」をはじめ、水害や大火災に苦しむ人々。大聖人は、こうした末法の時代相を凝視され、民衆を不幸にする根本の原因について探究を極められていたのです。
そして、民衆の幸福を願う大慈大悲から、あらゆる大難を御覚悟の上で、仏法の正義をもって、当時の権力者を真正面から諌(いさ)められた御書が安国論です。
「立正安国」とは「正を立て国を安んずる」との意義です。正義を打ち立てて、国を安寧(あんねい)にする。ここに、本書に込められた大聖人の悲願があります。
まさしく、大聖人が平和の大理想のため、社会に向かって決然と放たれた”警世(けいせい)の大提言”とも拝されましょう。
もとより、国とは日本一国にとどまらない。日寛上人は、「文(もん)は唯日本及び現世に在り、意は閻浮(えんぶ)及び未来に通ずべし」(立正安国論愚記)と仰せです。未来永遠にわたって、全世界の平和と、全民衆の幸福を勝ち開くことこそ、我ら仏法者の究極の誓願である。
二〇〇〇年の秋、読売新聞が行った「二十一世紀に伝える『あの一冊』という調査では、この「立正安国論」が「日本の名著」の第二位に選ばれています(同年十一月二十九日付朝刊)。
戸田先生が宣言された通り、安国論は「御書中の巨星」にして「金剛不壊(こんごうふえ)の明鏡」である。二十一世紀、いな未来永遠にわたって、人類文明の指標と仰がれゆく大哲学書であります。

慈悲の”仏法対話”

よく知られているように、本書は、客と主人の十問九答からなる問答形式で綴られております。
時代の苦しみを嘆く「旅客」に対し、「主人」は、打開のために正義の確立が不可欠であることを諄々(じゅんじゅん)と語り聞かせます。最初は反発していた客も、主人の語る哲理を聴き、次第に理解を深め、ついに正法への信仰に目覚めていく──。こうした確信と共感の”仏法対話”の流れで織りなされています。
まさに日蓮仏法は、偉大なる「対話の宗教」なのです。
恩師はよく話されました。
「大聖人の説得力は、単なる説得力ではない。根本が慈悲と勇気から発している説得力である。だから偉大なのである」
慈悲と勇気の「対話」こそ、心を動かし、時代を変えゆく最大の武器であります。
創価の対話運動は、大聖人に直結した最も正しい仏法の方軌なのです。
今回の御文の「一身の安堵」とは、個人の幸福を指します。「四表の静謐」とは、東西南北の四方の安穏(あんのん)、すなわち社会全体の平和のことであります。
個人の幸福を願うがゆえに、まず社会の平和を祈る。そのために真剣勝負で行動する。この両者を追及し、実現しゆくのが真の宗教です。
惑星の運行に譬えるならば、「一身の安堵」とは「自転」であり、「四表の静謐」とは「公転」に当たります。
自転と公転が連動して、大宇宙の調和の軌道が成り立っている。どちらか一方だけということはあり得ません。
大聖人御在世の当時、流行していた念仏をはじめとする諸宗は、ひたすら自己の救済のみを願うことを説いていた。
しかし、仏教本来の”自己の救済”とは、自身の内面に崩れざる境地を確立することにほかならない。自身の生命の変革がなければ、本当の意味での救済も不可能だからです。

「民の力」を強く!

当時、庶民の間には「念仏の哀音(あいおん)」(御書96ページ)が広がり、無力感や厭世観(えんせいかん)が蔓延して、人々の生きる力を衰弱させる一方でした。御書に「当世は世のみだれて民の力よわ(弱)し」(御書1595ページ)と記されている通りです。
大聖人は、こうした宗教界の風潮を打破し、「民の力」を強めるべく、正義の大師子吼を敢然と発せられたのです。
宗教本来の使命とは、個々人の幸福は当然として、広く地域・社会・国家・世界の平和と繁栄に貢献する活躍でなくてはならない。また、真実の宗教は、それだけの力ある「祈り」であり、「実践」なのです。
ただ伽藍(からん)に閉じ籠(こ)もって、わが身の安泰ばかりを祈るのは、仏法の本義では断じてない。
地球は一瞬たりとも回転を止めない。太陽も一日たりとも昇らない日はない。正しき信仰とは、「前進また前進!」「行動また行動!」と、快活に、生き生きと、人生・社会に価値を創造しゆく源泉なのであります。
私が共に対談集『地球対談 輝く女性の世紀へ』を発刊した、アメリカの未来学者のヘンダーソン博士は語られました。
「皆にとって良い社会を築くことが、結果的に、自分にとってプラスとなることを理解し、自らの生き方とすることが大事なのです」と。
「四表の静謐」のために尽くすことが、そのまま真の「一身の安堵」に通ずる。これが世界の良識が志向している人生の道です。
来る日も来る日も、世のため人のため、真剣な対話と行動を重ねている創価の同志は、その素晴らしき模範です。
なかんずく、わが婦人部の皆様の活躍こそ、地域の太陽であり、社会の太陽であります。
悩んでいる人がいれば、自分のことはさておいて飛んでいく。友の幸福を、真剣に祈り、心の底から励まし、宿命転換の戦いに一緒に立ち上がる。これほど崇高(すうこう)な、神々しい慈悲の連帯が、どこにありましょうか。
わが学会の同志こそ、現在における「立正安国」の栄光の闘士なり! いかなる虚栄の人よりも尊貴な人間の王者なり! 私は、こう心から讃嘆申し上げたいのです。

「前代未聞の大法」

日蓮仏法は、古代以来の日本の宗教土壌を、根底から変革しゆく正義の大法です。
大聖人は安国論に仰せです。
──仏閣は甍(いらか)を連ね、経蔵は軒を並べている。僧も大勢いて、民衆も敬っているようにみえる。しかし、法師たちは心がひねくれて人々の心を惑わせている。王臣たちは無知のため、邪正(じゃしょう)を弁(わきま)えない(御書20~21ページ、趣意)と。
いくら外見上は隆盛を誇っているようでも、幸福へ、繁栄へ、平和へとリードしゆく正しい教えが広まっていかなければ価値を生まない。問われるべきは、内実の哲学であります。
どんなに物質的に恵まれ、科学技術が進歩しても、時代の底流にある哲学が浅く、誤っていれば、民衆の人生観や生命観、ひいては政治・経済・文化・教育など、すべてのとらえ方が狂う。やがて社会全体が行き詰まってしまうのは必然でしょう。
大聖人は、仏眼・法眼をもって、こうした大きな時代のダイナミズムを見つめておられた。そして、時の最高権力者に仏法の正義を威風堂々と師子吼なされました。
正は正! 邪は邪!
善は善! 悪は悪!
こう明快に言い切るのが、真の仏法者です。「破邪」なくして「顕正」はありません。
正邪を疎(おろそ)かにし、権勢に媚びて利養を貪る偽善の聖職者。そして宗教を民衆支配の道具としていた為政者。この魔性に対し、大聖人は真っ向から挑まれたのです。
大聖人は叫ばれました。
「仏法渡つて今に七百余年前代未聞の大法此の国に流布して月氏・漢土・一閻浮提の内の一切衆生仏に成るべき事こそ有り難けれ有り難けれ」(御書1283ページ)
仏法が日本に渡来してから七百余年。大聖人は前代未聞の「立正安国」すなわち世界平和の大法を打ち立てられました。
そして、それから、さらに七百余年を経て、仏意仏勅の創価学会が、大聖人の仰せのままに「立正安国」の大法を、展開していったのです。
「立正」という宗教的信念!
「安国」という社会的理想!
この両輪で、力強く進みゆくのが、わが創価の正義の大行進です。それを目の当たりにして、いわば社会が動衆生疑(どうしゅうしょうぎ)(=自らの執着が動揺し、疑いを生じる)を起こすことも、これまた御聖訓の通りであります。

学会は時代を創る「生きた宗教」


学会に日本が驚嘆

戸田先生は語られました。
「わが創価学会によって、『宗教は生きている』『生きている宗教があるのだ』ということを、日本社会は知り、驚いている」
昭和三十一年(1956年)、”まさかが実現”と日本中を驚嘆させた大阪の戦いの大勝利。その直後に発せられた、恩師の師子王のお言葉です。
日蓮仏法は、時代と社会を変革する民衆の雄々しいエネルギーが漲(みなぎ)る「生きた宗教」にほかなりません。
だからこそ、大難が競い起こることも必然です。
昭和三十二年の七月十七日。権力による不当な逮捕を勝ち越えて出獄した私は、大阪大会(中之島の大阪市中央公会堂)で、駆けつけてくださった二万人の同志に、こう訴えました。
「戸田先生は、三類の強敵のなかにも僣聖増上慢が現れてきた、このように申されております。『大悪をこれば大善きたる』との日蓮大聖人の御金言のごとく、私もさらに、より以上の祈り切った信心で、皆様とともに広宣流布に邁進してまいります」と。
魔が競えば競うほど、ますます猛然と祈り抜き、戦い切るのが信心の真髄です。
大聖人は「但し大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(御書1448ページ)と仰せです。
創価の師弟は、いよいよの「強盛の信心」で、いかなる難も恐れず、「立正安国」の大道を、日本そして世界に切り開いてきました。
アメリカの名門デンバー大学のナンダ副学長は語ってくださいました。
「私たちは、社会に奉仕する必要があります。『悟り』は、本質的には、たんなる利己的な利益のためではなく、社会、人類という、自分を超えたものに奉仕するという、より大きな意義があるのです。
その意味で、SGIが、社会の諸問題の解決に向かって積極的にかかわっておられることが、私には嬉しいのです」
心ある識者の眼には、創価の運動の意義が鋭く映し出されています。

「此の一凶」と戦え

世界的な文化人類学者である、ハーバード大学のヤーマン教授も、論じてくださいました。
「創価学会の功績は、モラルを失い、混乱した社会に正しい方向性を示し、社会、政治、経済、文化の万般にわたって、蘇る力を与えたところにある」
これが、世界の信頼です。
「如(し)かず彼の万祈(ばんき)を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(御書24ページ)
この御金言も、安国論の一節です。敷衍(ふえん)すれば、民衆を苦しめ、不幸にする邪(よこしま)な思想の「一凶」と戦う勇気を失っては、真の幸福も、平和も成り立たないことを、鋭く喝破された師子吼の一節であられます。
「民衆」という軸がなければ「立正」も「安国」もない!
「正義」という旗がなければ「平和」も「繁栄」もない!
これが、大聖人の正統として戦われた初代・牧口先生、二代・戸田先生以来の、創価学会の大確信であります。
この魂を受け継ぐ人材の流れを創り上げること──ここに「立正安国」の血脈がある。
昭和五十四年の七月十六日。私は神奈川の天地で、宿縁深き「鳳雛会」「鳳雛グループ」の友に一詩を綴り贈りました。
「わが最愛の
鳳雛の弟子たちよ」
「この日の誓いを
忘ること勿れ
われ いかなる事あれども
その遺業を
必ずや君達が
雄渾なる信心にて
又 炎の使命感を持ち
成就しゆくことを
私は固く信じている
合掌」
「狂気の讒言の中
一人正義の旗を持ち
耐えつつ 君等を偲びつつ」
あの嵐の試練より三十年──鳳雛たちは立派な大鵬(おおとり)となり、あの地でも、この地でも、「立正安国」の勝利の指揮を雄渾に執ってくれています。

(聖教新聞 2009.07.16より)

第19回 立正安国論の太陽 (上)

「立正安国論」提出750年
世界に対話の大道は燦然

戸田先生は言われました。
「『立正安国論』は日蓮大聖人の御書中の巨星であり、末法の一切衆生に対する強烈な指南書である。実に立派な金剛不壊の明鏡と称すべきである」
日蓮大聖人が、国主諌暁の書である「立正安国論」を、時の最高権力者・北条時頼に提出なされたのは、文応元年(1260年)の七月十六日です。その歴史的な諌暁から、今年は七百五十年目に当たります。
大聖人の御化導は「立正安国論に始まり、立正安国論に終わる」と言われます。万年のための御闘争は、まさに「立正安国」の大理想に捧げられたのです。
今回は、御本仏の忍難弘通を偲びつつ、安国論の重要な御聖訓を拝してまいりたい。
「汝須(なんじすべから)く一身の安堵(あんど)を思わば先ず四表(しひょう)の静謐(せいひつ)を祷(いの)らん者か」(御書31ページ)
──あなたは、自分自身の安穏を願うならば、まず四方の平和を祈るべきである──。
「人間の幸福」と「世界の平和」を祈り、行動する仏法者の大精神を、為政者に対して厳然と示された御金言であります。

未来に贈る『警世の大提言』

民衆の幸福を願い

大聖人が、このように仰せになった鎌倉時代の様相はどうであったのでしょうか。
「立正安国論」の冒頭には、こう記されております。
「近年より近日に至るまで天変地夭(てんぺんちよう)・飢饉疫癘(ききんえきれい)・遍(あまね)く天下に満ち広く地上に迸(はびこ)る牛馬巷(ちまた)に斃(たお)れ骸骨路に充てり死を招くの輩(ともがら)既に大半に超え悲まざるの族(やから)敢(あえ)て一人も無し」(御書17ページ)
それは、自然災害・飢饉(ききん)・疫病(えきびょう)が打ち続き、大勢の民衆が命を落とした悲惨な時代だったのです。
「安国論」提出の三年前、正嘉(しょうか)元年(1257年)には、鎌倉一帯を大規模な震災が襲いました。この「正嘉の大地震」をはじめ、水害や大火災に苦しむ人々。大聖人は、こうした末法の時代相を凝視され、民衆を不幸にする根本の原因について探究を極められていたのです。
そして、民衆の幸福を願う大慈大悲から、あらゆる大難を御覚悟の上で、仏法の正義をもって、当時の権力者を真正面から諌(いさ)められた御書が安国論です。
「立正安国」とは「正を立て国を安んずる」との意義です。正義を打ち立てて、国を安寧(あんねい)にする。ここに、本書に込められた大聖人の悲願があります。
まさしく、大聖人が平和の大理想のため、社会に向かって決然と放たれた”警世(けいせい)の大提言”とも拝されましょう。
もとより、国とは日本一国にとどまらない。日寛上人は、「文(もん)は唯日本及び現世に在り、意は閻浮(えんぶ)及び未来に通ずべし」(立正安国論愚記)と仰せです。未来永遠にわたって、全世界の平和と、全民衆の幸福を勝ち開くことこそ、我ら仏法者の究極の誓願である。
二〇〇〇年の秋、読売新聞が行った「二十一世紀に伝える『あの一冊』という調査では、この「立正安国論」が「日本の名著」の第二位に選ばれています(同年十一月二十九日付朝刊)。
戸田先生が宣言された通り、安国論は「御書中の巨星」にして「金剛不壊(こんごうふえ)の明鏡」である。二十一世紀、いな未来永遠にわたって、人類文明の指標と仰がれゆく大哲学書であります。

慈悲の”仏法対話”

よく知られているように、本書は、客と主人の十問九答からなる問答形式で綴られております。
時代の苦しみを嘆く「旅客」に対し、「主人」は、打開のために正義の確立が不可欠であることを諄々(じゅんじゅん)と語り聞かせます。最初は反発していた客も、主人の語る哲理を聴き、次第に理解を深め、ついに正法への信仰に目覚めていく──。こうした確信と共感の”仏法対話”の流れで織りなされています。
まさに日蓮仏法は、偉大なる「対話の宗教」なのです。
恩師はよく話されました。
「大聖人の説得力は、単なる説得力ではない。根本が慈悲と勇気から発している説得力である。だから偉大なのである」
慈悲と勇気の「対話」こそ、心を動かし、時代を変えゆく最大の武器であります。
創価の対話運動は、大聖人に直結した最も正しい仏法の方軌なのです。
今回の御文の「一身の安堵」とは、個人の幸福を指します。「四表の静謐」とは、東西南北の四方の安穏(あんのん)、すなわち社会全体の平和のことであります。
個人の幸福を願うがゆえに、まず社会の平和を祈る。そのために真剣勝負で行動する。この両者を追及し、実現しゆくのが真の宗教です。
惑星の運行に譬えるならば、「一身の安堵」とは「自転」であり、「四表の静謐」とは「公転」に当たります。
自転と公転が連動して、大宇宙の調和の軌道が成り立っている。どちらか一方だけということはあり得ません。
大聖人御在世の当時、流行していた念仏をはじめとする諸宗は、ひたすら自己の救済のみを願うことを説いていた。
しかし、仏教本来の”自己の救済”とは、自身の内面に崩れざる境地を確立することにほかならない。自身の生命の変革がなければ、本当の意味での救済も不可能だからです。

「民の力」を強く!

当時、庶民の間には「念仏の哀音(あいおん)」(御書96ページ)が広がり、無力感や厭世観(えんせいかん)が蔓延して、人々の生きる力を衰弱させる一方でした。御書に「当世は世のみだれて民の力よわ(弱)し」(御書1595ページ)と記されている通りです。
大聖人は、こうした宗教界の風潮を打破し、「民の力」を強めるべく、正義の大師子吼を敢然と発せられたのです。
宗教本来の使命とは、個々人の幸福は当然として、広く地域・社会・国家・世界の平和と繁栄に貢献する活躍でなくてはならない。また、真実の宗教は、それだけの力ある「祈り」であり、「実践」なのです。
ただ伽藍(からん)に閉じ籠(こ)もって、わが身の安泰ばかりを祈るのは、仏法の本義では断じてない。
地球は一瞬たりとも回転を止めない。太陽も一日たりとも昇らない日はない。正しき信仰とは、「前進また前進!」「行動また行動!」と、快活に、生き生きと、人生・社会に価値を創造しゆく源泉なのであります。
私が共に対談集『地球対談 輝く女性の世紀へ』を発刊した、アメリカの未来学者のヘンダーソン博士は語られました。
「皆にとって良い社会を築くことが、結果的に、自分にとってプラスとなることを理解し、自らの生き方とすることが大事なのです」と。
「四表の静謐」のために尽くすことが、そのまま真の「一身の安堵」に通ずる。これが世界の良識が志向している人生の道です。
来る日も来る日も、世のため人のため、真剣な対話と行動を重ねている創価の同志は、その素晴らしき模範です。
なかんずく、わが婦人部の皆様の活躍こそ、地域の太陽であり、社会の太陽であります。
悩んでいる人がいれば、自分のことはさておいて飛んでいく。友の幸福を、真剣に祈り、心の底から励まし、宿命転換の戦いに一緒に立ち上がる。これほど崇高(すうこう)な、神々しい慈悲の連帯が、どこにありましょうか。
わが学会の同志こそ、現在における「立正安国」の栄光の闘士なり! いかなる虚栄の人よりも尊貴な人間の王者なり! 私は、こう心から讃嘆申し上げたいのです。

「前代未聞の大法」

日蓮仏法は、古代以来の日本の宗教土壌を、根底から変革しゆく正義の大法です。
大聖人は安国論に仰せです。
──仏閣は甍(いらか)を連ね、経蔵は軒を並べている。僧も大勢いて、民衆も敬っているようにみえる。しかし、法師たちは心がひねくれて人々の心を惑わせている。王臣たちは無知のため、邪正(じゃしょう)を弁(わきま)えない(御書20~21ページ、趣意)と。
いくら外見上は隆盛を誇っているようでも、幸福へ、繁栄へ、平和へとリードしゆく正しい教えが広まっていかなければ価値を生まない。問われるべきは、内実の哲学であります。
どんなに物質的に恵まれ、科学技術が進歩しても、時代の底流にある哲学が浅く、誤っていれば、民衆の人生観や生命観、ひいては政治・経済・文化・教育など、すべてのとらえ方が狂う。やがて社会全体が行き詰まってしまうのは必然でしょう。
大聖人は、仏眼・法眼をもって、こうした大きな時代のダイナミズムを見つめておられた。そして、時の最高権力者に仏法の正義を威風堂々と師子吼なされました。
正は正! 邪は邪!
善は善! 悪は悪!
こう明快に言い切るのが、真の仏法者です。「破邪」なくして「顕正」はありません。
正邪を疎(おろそ)かにし、権勢に媚びて利養を貪る偽善の聖職者。そして宗教を民衆支配の道具としていた為政者。この魔性に対し、大聖人は真っ向から挑まれたのです。
大聖人は叫ばれました。
「仏法渡つて今に七百余年前代未聞の大法此の国に流布して月氏・漢土・一閻浮提の内の一切衆生仏に成るべき事こそ有り難けれ有り難けれ」(御書1283ページ)
仏法が日本に渡来してから七百余年。大聖人は前代未聞の「立正安国」すなわち世界平和の大法を打ち立てられました。
そして、それから、さらに七百余年を経て、仏意仏勅の創価学会が、大聖人の仰せのままに「立正安国」の大法を、展開していったのです。
「立正」という宗教的信念!
「安国」という社会的理想!
この両輪で、力強く進みゆくのが、わが創価の正義の大行進です。それを目の当たりにして、いわば社会が動衆生疑(どうしゅうしょうぎ)(=自らの執着が動揺し、疑いを生じる)を起こすことも、これまた御聖訓の通りであります。

学会は時代を創る「生きた宗教」

学会に日本が驚嘆

戸田先生は語られました。
「わが創価学会によって、『宗教は生きている』『生きている宗教があるのだ』ということを、日本社会は知り、驚いている」
昭和三十一年(1956年)、”まさかが実現”と日本中を驚嘆させた大阪の戦いの大勝利。その直後に発せられた、恩師の師子王のお言葉です。
日蓮仏法は、時代と社会を変革する民衆の雄々しいエネルギーが漲(みなぎ)る「生きた宗教」にほかなりません。
だからこそ、大難が競い起こることも必然です。
昭和三十二年の七月十七日。権力による不当な逮捕を勝ち越えて出獄した私は、大阪大会(中之島の大阪市中央公会堂)で、駆けつけてくださった二万人の同志に、こう訴えました。
「戸田先生は、三類の強敵のなかにも僣聖増上慢が現れてきた、このように申されております。『大悪をこれば大善きたる』との日蓮大聖人の御金言のごとく、私もさらに、より以上の祈り切った信心で、皆様とともに広宣流布に邁進してまいります」と。
魔が競えば競うほど、ますます猛然と祈り抜き、戦い切るのが信心の真髄です。
大聖人は「但し大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(御書1448ページ)と仰せです。
創価の師弟は、いよいよの「強盛の信心」で、いかなる難も恐れず、「立正安国」の大道を、日本そして世界に切り開いてきました。
アメリカの名門デンバー大学のナンダ副学長は語ってくださいました。
「私たちは、社会に奉仕する必要があります。『悟り』は、本質的には、たんなる利己的な利益のためではなく、社会、人類という、自分を超えたものに奉仕するという、より大きな意義があるのです。
その意味で、SGIが、社会の諸問題の解決に向かって積極的にかかわっておられることが、私には嬉しいのです」
心ある識者の眼には、創価の運動の意義が鋭く映し出されています。

「此の一凶」と戦え

世界的な文化人類学者である、ハーバード大学のヤーマン教授も、論じてくださいました。
「創価学会の功績は、モラルを失い、混乱した社会に正しい方向性を示し、社会、政治、経済、文化の万般にわたって、蘇る力を与えたところにある」
これが、世界の信頼です。
「如(し)かず彼の万祈(ばんき)を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(御書24ページ)
この御金言も、安国論の一節です。敷衍(ふえん)すれば、民衆を苦しめ、不幸にする邪(よこしま)な思想の「一凶」と戦う勇気を失っては、真の幸福も、平和も成り立たないことを、鋭く喝破された師子吼の一節であられます。
「民衆」という軸がなければ「立正」も「安国」もない!
「正義」という旗がなければ「平和」も「繁栄」もない!
これが、大聖人の正統として戦われた初代・牧口先生、二代・戸田先生以来の、創価学会の大確信であります。
この魂を受け継ぐ人材の流れを創り上げること──ここに「立正安国」の血脈がある。
昭和五十四年の七月十六日。私は神奈川の天地で、宿縁深き「鳳雛会」「鳳雛グループ」の友に一詩を綴り贈りました。
「わが最愛の
  鳳雛の弟子たちよ」
「この日の誓いを
  忘ること勿れ
 われ いかなる事あれども
  その遺業を
 必ずや君達が
  雄渾なる信心にて
 又 炎の使命感を持ち
  成就しゆくことを
  私は固く信じている
         合掌」
「狂気の讒言の中
 一人正義の旗を持ち
 耐えつつ 君等を偲びつつ」
あの嵐の試練より三十年──鳳雛たちは立派な大鵬(おおとり)となり、あの地でも、この地でも、「立正安国」の勝利の指揮を雄渾に執ってくれています。

(聖教新聞 2009.07.16より)
最終更新 2009年 8月 18日(火曜日) 11:54
 

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